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奥多摩工業とセメントの歴史

 

1. はじめに

東京都西部、自然豊かな奥多摩地方の片隅に、ひっそりと、しかし迫力をもってそびえ立つセメント工場がある。奥多摩工業株式会社 氷川工場である。「工場萌えの聖地」「ジブリ作品に出てきそう」などと評されるこの工場は、”セメント王””や”京浜工業地帯の生みの親”と呼ばれ、日本の経済界に多大な影響を与えた実業家、浅野総一郎と深い関係を有している。奥多摩を訪れた人の中には「どうしてこのような巨大な工場が奥多摩にあるのか」と疑問に思う人も多いだろう。今回は、浅野総一郎を主人公として奥多摩工業の歴史を辿りながら、工場設立の経緯と日本セメント産業との深い結びつきを紐解いていく。

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奥多摩工業 氷川工場

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浅野総一郎

2. 設立

(1) 日本セメント産業の始まり

奥多摩工業設立の背景を述べるにあたって、まずは日本のセメント産業の始まりを簡単に説明する。日本でセメントの製造が始まったのは明治初期のこと。それまでの日本はセメントの製造技術を有しておらず高価な海外輸入品に頼っていた。セメントはコンクリートの材料であり、コンクリートは建築物、道路、ダムなどの建築土木工事に必要不可欠な材料である。セメントの材料となる石灰石が天然資源の乏しい日本としては珍しく自給可能な資源であったことも好材料となり、セメントは比較的早くから国産化の取り組みがなされていた。

深川セメント製造所は、明治政府により東京都江東区清澄1丁目に建設された日本で初めてのセメント工場である。1875年5月19日に初めてセメント製造に成功し、この日は後日「セメントの日」として制定される。かの有名な八幡製鉄所が操業を開始する15年も前のことである。

徐々に生産量を拡大していた最中、西南戦争により不足した財源を補てんする目的で1883年に民間に払い下げられた。その払い下げ先が先に述べた浅野総一郎であった。

浅野総一郎への払い下げの背景には、三菱財閥の創業者で浅野と親交があった実業家、岩崎弥太郎の力添えあったと言われている。それとの関係性は不明だが、深川セメント製造所は岩崎弥太郎が造営した大規模な庭園である清州庭園の目と鼻の先に位置している。現在、深川セメント製造所の跡地の一部は現在アサノコンクリート深川工場となっており、敷地内にはセメント産業発祥の地であることを示す石碑も存在する。

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アサノコンクリート深川工場

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参照URL: https://www.taiheiyo-cement.co.jp/rd/archives/story/images/story2.pdf

(2) 浅野セメント川崎工場の設立

深川セメント製造所を引き継いだ浅野総一郎は、国内需要の高まりを追い風に工場設備を増強していく。しかし、深川セメント製造所の増強には限界があり、新工場設立による生産量増加を図る必要があった。その建設先として選ばれたのが、遠浅の海が広がりかつ都内へのアクセスが容易な川崎・鶴見地域の沿岸部だった。

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OpenStreetMap

川崎・鶴見の沿岸部に工業地帯の造成を夢見た浅野総一郎の手により、1913年に埋立工事(写真オレンジ部分)が着工し、1928年には京浜工業地帯が完成する。念願の新工場である浅野セメント川崎工場も設立され、セメント生産能力が格段に成長した。なお、この時の埋めたては「浅野埋立」と呼ばれ、同地域には日本鋼管(現JFEスチール)、旭硝子日清製粉などの大手企業の工場が立ち並んでいる。

参照URL: 鶴見の産業 横浜市鶴見区

参照URL: https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000100732.pdf

参照URL: https://www.toa-const.co.jp/company/introduction/asano/ 

(3) 奥多摩電気鉄道株式会社の設立

セメントの生産能力が上がるということは、その分原料となる石灰石が必要となることを意味する。浅野総一郎が着目したのは、奥多摩地域に眠る大量の石灰石であった。

浅野セメントは1927年に奥多摩日原地区の山林を買収した。日原地区は関東地方最大級の鍾乳洞である「日原鍾乳洞」があることからも分かる通り石灰石の宝庫であり、かつ川崎工場からも直線距離で約100kmと近い。こういった背景から、奥多摩地域の鉱山開発と、石灰石輸送のための奥多摩~川崎までの鉄道網の建設が同時並行で始まった。奥多摩工業株式会社(旧、奥多摩電気鉄道株式会社)は、鉄道網のうち最も上流側である御嶽駅~氷川駅(奥多摩駅)の鉄道会社として1937年に設立され、その後鉱山開発も担うようになる。具体的には、日原鉱床を含む奥多摩地域で石灰石を採掘、氷川工場で選鉱し、氷川駅から川崎へと石灰石を発送していた。なお、JR南武線(浜川崎支線含む)・JR五日市線・JR青梅線は、国鉄編入前までは浅野系の資本が入る民間企業であり、浅野総一郎が築き上げた奥多摩~川崎の巨大鉄道網の一翼を担っていた。

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奥多摩工業 氷川工場

参照URL: Wayback Machine

3. 中断と成長

石灰石の供給元である奥多摩の鉱床・奥多摩~川崎の鉄道網・川崎のセメント工場を手に入れ、いよいよ増産体制を確立するという矢先、日本は第二次世界大戦へと突入する。奥多摩工業は兵器生産に必要不可欠な石灰石輸送を担うという重要性から、開業と同時に国有化されてしまう。

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OpenStreetMap

奥多摩工業がようやく自社での石灰石の採掘を再開するのは、戦後黎明期にあたる1946年である。奥多摩工業は日原鉱床~氷川工場の石灰石輸送のためにベルトコンベアと曳索鉄道を建設した。これにより採掘された石灰石を効率よく選鉱場である氷川工場に輸送できるようになった。

戦争による中断はあったものの、浅野総一郎が目指したセメント生産体制(奥多摩での石灰石採掘~川崎でのセメント生産)はこうして完成した。奥多摩工業の石灰石採掘量は戦後復興によるセメント需要の高まりと比例して増加し、1962年には年間238万トンもの数値を記録した。これは国内に存在する鉱山の中では2番目の生産量であり、会社別でも日本7番目の生産量である。大量の石灰石採掘により日原鉱床が貧鉱化すると、1974年には日原鉱床の北西約5kmにある天祖山の開発を開始し、日原鉱床~天祖山鉱床にも曳索鉄道を建設した。1977年に撮影された曳索鉄道の貴重な写真については以下サイト参照してほしい。

tsunechan.web.fc2.com

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参照:https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/63_07_01.pdf

4. 転換

こうして構築された奥多摩工業の石灰石の生産・供給体制であるが、徐々に変化の兆しが現れる。背景には、石灰石運搬船の技術向上と、それに伴う石灰石・セメント価格競争の激化があると推測する。石灰石の多くが中国・九州地方に偏在する関係から、大規模なセメント工場の多くが中国・九州に位置していたが、石灰石運搬船・セメント運搬船の開発により安価・大量に首都圏をはじめとする消費地に輸送できるようになった。現在では日本セメント業界の常識となっている、”セメントは西から東に流れる”と言われる流通体制の確立である。これにより、石灰石輸送の主役は鉄道から船舶に移り変わり、鉄道輸送が必要となる奥多摩工業の石灰石は割高となった。

ビジネスモデルの変化を求められた奥多摩工業は、石灰石の加工へと注力していく。1974年には石灰石加工を行う子会社である奥多摩化工(株)を吸収合併し、採掘・加工・販売までの一貫した製品開発を目指した。

参照: 石灰石専用船|船図鑑|地球にやさしく日本をはこぶ 内航海運キッズページ ふれんどシップ

参照: セメント専用船|船図鑑|地球にやさしく日本をはこぶ 内航海運キッズページ ふれんどシップ

参照: 奥多摩工業(株)の新卒採用・会社概要 | マイナビ2021

5. 現在

現在の奥多摩工業は、浅野セメントの流れをくむ巨大企業である太平洋セメントの関連会社として、浅野セメント川崎工場(現、株式会社デイ・シイ川崎工場)は同社の子会社として存在している。また、奥多摩工業は、石灰石の採掘を続ける一方、化学・製紙・環境・農業や園芸など幅広い業界向けの石灰石製品の研究開発を行っている。例えば、「タマカルク」は、ごみ焼却時に発生する酸性ガスを中和除去する処理剤として、業界内で確かな存在感を持っている。

なお、奥多摩工業の成長とともに増設された曳索鉄道は現在でも一部存在し、密かな観光名称になっている。JR奥多摩駅から徒歩15分程度であり、工場敷地内に立ち入ることなく外から見ることができる。訪問ルートは添付動画を参照されたい。

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www.youtube.com

また、奥多摩工業 日原鉱床から徒歩15分ほどの場所に、倉沢集落という廃村がある。この集落にはかつて奥多摩工業で働く労働者向けの社宅が存在した。現在は誰も住んでいない廃村であるが、奥多摩工業繁栄の一つの遺跡である。

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6. おわりに

奥多摩旅行の際、偶然見かけた氷川工場の姿に圧倒され、その歴史を調べはじめたことがきっかけとなって今回に至った。長々と述べてきたが、奥多摩工業が戦後復興や高度経済成長を支えたことは間違いない。設立から1世紀を経た老舗企業であるが、これからも石灰石という資源を通じて日本社会に貢献し続けることを陰ながら期待している。

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