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旅行の話を書き溜めるブログです。

奥多摩工業とセメントの歴史

 

1. はじめに

東京都西部、自然豊かな奥多摩地方の片隅に、ひっそりと、しかし迫力をもってそびえ立つセメント工場がある。奥多摩工業株式会社 氷川工場である。「工場萌えの聖地」「ジブリ作品に出てきそう」などと評されるこの工場は、”セメント王””や”京浜工業地帯の生みの親”と呼ばれ、日本の経済界に多大な影響を与えた実業家、浅野総一郎と深い関係を有している。奥多摩を訪れた人の中には「どうしてこのような巨大な工場が奥多摩にあるのか」と疑問に思う人も多いだろう。今回は、浅野総一郎を主人公として奥多摩工業の歴史を辿りながら、工場設立の経緯と日本セメント産業との深い結びつきを紐解いていく。

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奥多摩工業 氷川工場

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浅野総一郎

2. 設立

(1) 日本セメント産業の始まり

奥多摩工業設立の背景を述べるにあたって、まずは日本のセメント産業の始まりを簡単に説明する。日本でセメントの製造が始まったのは明治初期のこと。それまでの日本はセメントの製造技術を有しておらず高価な海外輸入品に頼っていた。セメントはコンクリートの材料であり、コンクリートは建築物、道路、ダムなどの建築土木工事に必要不可欠な材料である。セメントの材料となる石灰石が天然資源の乏しい日本としては珍しく自給可能な資源であったことも好材料となり、セメントは比較的早くから国産化の取り組みがなされていた。

深川セメント製造所は、明治政府により東京都江東区清澄1丁目に建設された日本で初めてのセメント工場である。1875年5月19日に初めてセメント製造に成功し、この日は後日「セメントの日」として制定される。かの有名な八幡製鉄所が操業を開始する15年も前のことである。

徐々に生産量を拡大していた最中、西南戦争により不足した財源を補てんする目的で1883年に民間に払い下げられた。その払い下げ先が先に述べた浅野総一郎であった。

浅野総一郎への払い下げの背景には、三菱財閥の創業者で浅野と親交があった実業家、岩崎弥太郎の力添えあったと言われている。それとの関係性は不明だが、深川セメント製造所は岩崎弥太郎が造営した大規模な庭園である清州庭園の目と鼻の先に位置している。現在、深川セメント製造所の跡地の一部は現在アサノコンクリート深川工場となっており、敷地内にはセメント産業発祥の地であることを示す石碑も存在する。

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アサノコンクリート深川工場

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参照URL: https://www.taiheiyo-cement.co.jp/rd/archives/story/images/story2.pdf

(2) 浅野セメント川崎工場の設立

深川セメント製造所を引き継いだ浅野総一郎は、国内需要の高まりを追い風に工場設備を増強していく。しかし、深川セメント製造所の増強には限界があり、新工場設立による生産量増加を図る必要があった。その建設先として選ばれたのが、遠浅の海が広がりかつ都内へのアクセスが容易な川崎・鶴見地域の沿岸部だった。

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OpenStreetMap

川崎・鶴見の沿岸部に工業地帯の造成を夢見た浅野総一郎の手により、1913年に埋立工事(写真オレンジ部分)が着工し、1928年には京浜工業地帯が完成する。念願の新工場である浅野セメント川崎工場も設立され、セメント生産能力が格段に成長した。なお、この時の埋めたては「浅野埋立」と呼ばれ、同地域には日本鋼管(現JFEスチール)、旭硝子日清製粉などの大手企業の工場が立ち並んでいる。

参照URL: 鶴見の産業 横浜市鶴見区

参照URL: https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000100732.pdf

参照URL: https://www.toa-const.co.jp/company/introduction/asano/ 

(3) 奥多摩電気鉄道株式会社の設立

セメントの生産能力が上がるということは、その分原料となる石灰石が必要となることを意味する。浅野総一郎が着目したのは、奥多摩地域に眠る大量の石灰石であった。

浅野セメントは1927年に奥多摩日原地区の山林を買収した。日原地区は関東地方最大級の鍾乳洞である「日原鍾乳洞」があることからも分かる通り石灰石の宝庫であり、かつ川崎工場からも直線距離で約100kmと近い。こういった背景から、奥多摩地域の鉱山開発と、石灰石輸送のための奥多摩~川崎までの鉄道網の建設が同時並行で始まった。奥多摩工業株式会社(旧、奥多摩電気鉄道株式会社)は、鉄道網のうち最も上流側である御嶽駅~氷川駅(奥多摩駅)の鉄道会社として1937年に設立され、その後鉱山開発も担うようになる。具体的には、日原鉱床を含む奥多摩地域で石灰石を採掘、氷川工場で選鉱し、氷川駅から川崎へと石灰石を発送していた。なお、JR南武線(浜川崎支線含む)・JR五日市線・JR青梅線は、国鉄編入前までは浅野系の資本が入る民間企業であり、浅野総一郎が築き上げた奥多摩~川崎の巨大鉄道網の一翼を担っていた。

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奥多摩工業 氷川工場

参照URL: Wayback Machine

3. 中断と成長

石灰石の供給元である奥多摩の鉱床・奥多摩~川崎の鉄道網・川崎のセメント工場を手に入れ、いよいよ増産体制を確立するという矢先、日本は第二次世界大戦へと突入する。奥多摩工業は兵器生産に必要不可欠な石灰石輸送を担うという重要性から、開業と同時に国有化されてしまう。

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OpenStreetMap

奥多摩工業がようやく自社での石灰石の採掘を再開するのは、戦後黎明期にあたる1946年である。奥多摩工業は日原鉱床~氷川工場の石灰石輸送のためにベルトコンベアと曳索鉄道を建設した。これにより採掘された石灰石を効率よく選鉱場である氷川工場に輸送できるようになった。

戦争による中断はあったものの、浅野総一郎が目指したセメント生産体制(奥多摩での石灰石採掘~川崎でのセメント生産)はこうして完成した。奥多摩工業の石灰石採掘量は戦後復興によるセメント需要の高まりと比例して増加し、1962年には年間238万トンもの数値を記録した。これは国内に存在する鉱山の中では2番目の生産量であり、会社別でも日本7番目の生産量である。大量の石灰石採掘により日原鉱床が貧鉱化すると、1974年には日原鉱床の北西約5kmにある天祖山の開発を開始し、日原鉱床~天祖山鉱床にも曳索鉄道を建設した。1977年に撮影された曳索鉄道の貴重な写真については以下サイト参照してほしい。

tsunechan.web.fc2.com

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参照:https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/63_07_01.pdf

4. 転換

こうして構築された奥多摩工業の石灰石の生産・供給体制であるが、徐々に変化の兆しが現れる。背景には、石灰石運搬船の技術向上と、それに伴う石灰石・セメント価格競争の激化があると推測する。石灰石の多くが中国・九州地方に偏在する関係から、大規模なセメント工場の多くが中国・九州に位置していたが、石灰石運搬船・セメント運搬船の開発により安価・大量に首都圏をはじめとする消費地に輸送できるようになった。現在では日本セメント業界の常識となっている、”セメントは西から東に流れる”と言われる流通体制の確立である。これにより、石灰石輸送の主役は鉄道から船舶に移り変わり、鉄道輸送が必要となる奥多摩工業の石灰石は割高となった。

ビジネスモデルの変化を求められた奥多摩工業は、石灰石の加工へと注力していく。1974年には石灰石加工を行う子会社である奥多摩化工(株)を吸収合併し、採掘・加工・販売までの一貫した製品開発を目指した。

参照: 石灰石専用船|船図鑑|地球にやさしく日本をはこぶ 内航海運キッズページ ふれんどシップ

参照: セメント専用船|船図鑑|地球にやさしく日本をはこぶ 内航海運キッズページ ふれんどシップ

参照: 奥多摩工業(株)の新卒採用・会社概要 | マイナビ2021

5. 現在

現在の奥多摩工業は、浅野セメントの流れをくむ巨大企業である太平洋セメントの関連会社として、浅野セメント川崎工場(現、株式会社デイ・シイ川崎工場)は同社の子会社として存在している。また、奥多摩工業は、石灰石の採掘を続ける一方、化学・製紙・環境・農業や園芸など幅広い業界向けの石灰石製品の研究開発を行っている。例えば、「タマカルク」は、ごみ焼却時に発生する酸性ガスを中和除去する処理剤として、業界内で確かな存在感を持っている。

なお、奥多摩工業の成長とともに増設された曳索鉄道は現在でも一部存在し、密かな観光名称になっている。JR奥多摩駅から徒歩15分程度であり、工場敷地内に立ち入ることなく外から見ることができる。訪問ルートは添付動画を参照されたい。

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www.youtube.com

また、奥多摩工業 日原鉱床から徒歩15分ほどの場所に、倉沢集落という廃村がある。この集落にはかつて奥多摩工業で働く労働者向けの社宅が存在した。現在は誰も住んでいない廃村であるが、奥多摩工業繁栄の一つの遺跡である。

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6. おわりに

奥多摩旅行の際、偶然見かけた氷川工場の姿に圧倒され、その歴史を調べはじめたことがきっかけとなって今回に至った。長々と述べてきたが、奥多摩工業が戦後復興や高度経済成長を支えたことは間違いない。設立から1世紀を経た老舗企業であるが、これからも石灰石という資源を通じて日本社会に貢献し続けることを陰ながら期待している。

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きてけろ山形 〜最上・村上編~

 

 

1. はじめに

山形県庄内地方(旧酒田県)、最上・村上地方(旧山形県)、置賜地方(旧置賜県)の3つに分けて、おすすめの観光地を紹介する。今回は最終回として最上・村上地方を取り上げる。

2. 最上・村上地方

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紫:庄内地方 青:庄内地方 黄:村上地方 緑:置賜地方

https://www.openstreetmap.org/copyright

2-1. 観光地

A. 山寺 (山形市)

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開山堂(向かって左)と納経堂(向かって右)

「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」

松尾芭蕉が山寺を訪れた際に詠んだ、奥の細道に収録されている有名な句である。蝉が騒がしく鳴くなか、山寺の雰囲気に心を落ち着かせた芭蕉の心理を描いている。

山寺(正式名称:宝殊山立石寺)は、860年に清和天皇の勅願により建立された天台宗の寺院である。周囲に木々が生い茂る1015段もの石段を上ると多くの伽藍が存在する。五大堂からは、眼下に広がる景色を一望できる。

往復1.5時間ほどを要する険しい石段の道であるが、途中には石像やお堂などが所々あり非常に雰囲気がよい。また、下山した後にお土産屋で食べる玉こんにゃくがたまらなく美味しい。登山後の一休みに是非ご賞味いただきたい。

www.rissyakuji.jp

参照URL:「閑かさや」の句に秘められた真実 | NHKテキストビュー

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五大堂からの景色
B. 徳良湖 (尾花沢市

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夕日に沈む徳良湖

徳良湖は、オートキャンプ場や、サイクリングコース、テニスコートグラウンドゴルフ場などが整備されているため池である。近くには、「徳良湖温泉花笠の湯」という日帰り入浴施設もある。

さて、東北三大祭りというと仙台七夕祭り、秋田竿灯まつり、青森ねぶた祭りであるが、東北四大祭りといったときに残り一つに滑り込んでくるのが、山形の花笠まつりだ。そして、その有名な花笠まつりが生まれた地は、ここ徳良湖と伝えられている。

徳良湖は1921年(大正10年)に新田開発の目的で建設された。その築堤工事に携わった地域の若者が、数人掛りで石を持ち上げ堤にたたきつけるという作業をしている際、お囃子に合わせるように、また時には日焼けや雨除けのためにかぶっていた笠を使って踊ったことが、花笠まつり誕生の由来と言われている。

時代は流れ、1953年(昭和28年)に山形市の祭りで花笠まつりが披露されると、知名度が急上昇。1955年(明治30年)からは「山形花笠まつり」として単独で行われる毎年恒例の祭りとなった。一見するとただのため池であるが、その歴史を知ると見る目が変わってくると思う。

yamagatakanko.com

 

参照URL:花笠まつり — 山形県ホームページ

C. 銀山温泉 (尾花沢市)

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銀山温泉

駅に貼られた観光宣伝用のポスター「いくぜ東北!冬のご褒美」を通じて銀山温泉を知った方も多いかもしれない。雪が降り積もる温泉街の写真は、多くの人々に「冬の温泉街=銀山温泉」というイメージを植え付けた。

銀山温泉は、その名の通りもともとは銀山の街であった。1456年に銀が発見されると年々採掘量は増加し、最盛期には岩見銀山・生野銀山とともに日本の三大銀山と呼ばれるまでに成長した。しかし、江戸時代初期にあたる1631年をピークとして採掘量は減少し、1689年には閉山となった。

その後、銀山は「銀山温泉」として発展することになる。湧出量の減少や大洪水などの紆余曲折はあったものの、湧出量の再増加や、山形新幹線の開通によるアクセス性向上などにより、現在は大正ロマンが漂う風情ある温泉街として、山形を代表する観光地となっている。

参照URL:名所 旧跡 延沢銀山遺跡 - 尾花沢市

www.jre-travel.com

D. 関山大滝 (東根市)

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関山大滝

日本全国には約2500もの滝(落差5メートル以上)があるといわれているが、山形県は全都道府県の中で最も多い230もの滝を有する「日本一の滝王国」である。そして、滝王国山形の中でも近年パワースポットとして注目を集めているのがこの関山大滝だ。

関山大滝は水量が多く非常に迫力がある。一方、滝と反対側(下流部)に目を向けると、一転して穏やかな河原が広がっている。このような変化に富んだ自然こそが、関山大滝がパワースポットと呼ばれる所以かもしれない。

なお、関山大滝は国道48号沿いにある「大滝ドライブイン」から階段を下りればすぐという好立地だ。近くにお越しの際には是非お立ち寄りいただきたい。

参照URL: 日本一の滝王国山形|やまがたへの旅

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関山大滝 (下流方向)
E. かみのやま温泉 (上山市)

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下大湯公衆浴場

山形県は「日本一の滝王国」であるのと同時に、県内全ての市町村に温泉が湧き出す「温泉王国」でもある(いくつ王国があるのか…)。その中でも上山市は、城下町・宿場町・温泉街という3つの顔を兼ね備える全国的にも珍しい都市だ。

上山には室町時代から城が建てられ城下町として発展していた。1458年、旅の僧が上山を訪れた際、足に傷を負った鶴が足を水に浸したところ傷が癒えて再び飛び立った様子を見て温泉を発見したと言われている。

温泉が発見された後、羽越街道を利用する武士向けに温泉宿が建てられ、温泉宿場町として発展した。その後、江戸時代初期にあたる1625年に、初代上山藩主松平重忠が温泉を下大湯公衆浴場に流すことを許したことから、庶民にまで温泉文化が広がった。

kaminoyama-spa.com

参照URL:かみのやま温泉 開湯555年 — 山形県ホームページ

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上山城と雪降る城下町
F. 蔵王 (山形市)

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紅葉で色付く蔵王

山形旅行を締めるのは、やはり山形観光の王道である蔵王がふさわしい。

温泉地として年度宿泊利用者数(325,202人)、湧出量(6733リットル/分)ともに山形県1位であり、歴史も開湯1900年と県内で最も古い。泉質は強酸性の硫黄泉であり、酸性度の高さは秋田/玉川温泉と並び全国トップクラスである。硫黄臭も強く、蔵王温泉で使ったタオルは数回洗濯しても硫黄の香りが消えないほどである。

そんな蔵王温泉に露天で入ることができる日帰り入浴施設が、蔵王温泉大露天風呂だ。同時に200人が入浴できるという広さで、手に触れられる距離で隣に川が流れていおり、とにかく開放感がすごい。

www.jupeer-zao.com

 

また、雄大で美しい自然も蔵王の大きな魅了の一つだ。蔵王を訪れた際には是非お立ち寄りいただきたいのが、鴫の谷池沼(しぎのやちぬま)である。周囲1.5キロメートルの小さな沼には遊歩道(1周50分ほど)が整備されており、例年4月下旬から5月上旬には水芭蕉、5月中旬からはレンゲツツジ、10月中旬から10月下旬には紅葉が見ごろとなる。遠方に蔵王の山々を一望しながらの散歩は非常に気持ちがいい。蔵王の自然を感じることができるおすすめスポットだ。

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鴫の谷池沼と蔵王

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横倉滝

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鴫の谷池沼の水芭蕉

参照URL:蔵王温泉 — 山形県ホームページ

参照URL:お肌に効果的!強酸性と強アルカリ性の温泉TOP5 | 温泉JAPAN

参照URL:https://www.pref.yamagata.jp/ou/kankyoenergy/050011/kankyoeikyohyoka/onsen01/siryou/yamagata_onsen_2018.pdf

3. おすすめの観光ルート

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OpenStreetMap

これらの観光地を回るルートは以下の通りである。全行程を通じて、比較的車で走りやすい道が続く。

 

山形駅

↓🚗(30分)

A. 山寺

↓🚗(60分)

B. 徳良湖

↓🚗(15分)

C. 銀山温泉

↓🚗(60分)

D. 関山大滝

↓🚗(50分)

E. かみのやま温泉

↓🚗(30分)

F. 蔵王

↓🚗(30分)

山形駅

きてけろ山形 ~置賜編~

 

 

1. はじめに  

 

山形県庄内地方(旧酒田県)、最上&村上地方(旧山形県)、置賜地方(旧置賜県)の3つに分けて、おすすめの観光地を紹介する。今回は第2回として、置賜地方を取り上げる。

2. 置賜地方

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紫:庄内地方 青:最上地方 黄:村上地方 緑:置賜地方

https://www.openstreetmap.org/copyright

2-1. 地域の特徴 

置賜地方は南を福島県に接する山形県南部の地方(地図の緑)である。代表的な都市としては米沢市南陽市長井市などが挙げられる。盆地であるため一日の気温差が大きく、冬季は豪雪地帯として知られている。

参照URL:おきたま観光ポータル 南の山形 たまには おきたま 旅紀行

参照URL:イザベラ・バードからのメッセージ

2-2. 観光地

A.  峠駅 (米沢市)

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峠駅

峠駅はその名の通り、福島~米沢間にある板谷峠(標高624メートル)の峠地点にある駅である。古くから福島への抜けるための山道の難所であり、鉄道の敷設にあたっては、鉄道路線として日本最大級の勾配と豪雪地帯という気候が大きな障壁となった。

峠駅にはそれらの対策として設置された「スイッチバック」と「スノーシェルター(雪囲い)」という設備が遺構として残されている。また、開業当初(1901年)から現在まで、近隣の「峠の茶屋」の売り子が電車の到着時間に合わせてホームに現れ、電車の窓越しで峠の力餅の販売を行っている。新幹線に乗ると一瞬で通過してしまう駅であるが、その独特の雰囲気と歴史を感じる佇まいは鉄道ファンでなくても一見の価値がある。getnavi.jp

www.youtube.com

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峠駅 スノーシェルター
B. 姥湯温泉 (米沢市)

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姥湯温泉

室町時代の1553年に開湯した歴史ある温泉。赤褐色の岩肌が露出する山の中に突然現れ、大自然を感じながら温泉に入ることができる"the秘湯"。離れていてもつんと鼻に香るほどの硫黄泉で、入浴後には保湿&保温効果を感じる。日帰り入浴(9:30~15:30)も楽しめるので、峠駅を訪れた際はぜひお立ち寄りいただきたい。なお、姥湯温泉の名前の由来がとても興味深いので以下に引用する。

 

鉱山師だった初代が鉱脈を求めて山々を渡り歩いているとたまたまこの地へやって来た。
すると露天風呂に髪の長い女性が湯浴みしているではないか。
こんな山奥で女が湯浴みとはと驚き、おそるおそる近づけば、なんと、赤ん坊を抱いた恐ろしい形相の山姥であった。
思わず逃げ腰になると、山姥はそんな因果な山師などやめて、この湯の湯守にならんかいと云い残し、赤ん坊もろとも山姥の姿はどこかえ消えてしまったという。
それ以来、この湯を姥湯と名づけ、現在に至ると言い伝えられております。 

桝形屋 公式HPより引用 http://www.ubayuonsen.com/about/about.html

 

 C. 上杉家御廟 (米沢市)f:id:kinmokuseinotabi:20200511212506j:plain
上杉家御廟

初代上杉謙信公から12代の斉定公までの歴代上杉家当主の墓所

上杉家の廟所が米沢にある理由については少々説明を要する。上杉家の領地は元々は越前であり、米沢は”独眼竜”伊達政宗の領地であった。しかし、2代目景勝の時代に豊臣秀吉の命により上杉家は米沢を含む会津120万石に封ぜられ、代わりに伊達家は岩出山(現在の宮城県)に転封となった。その後、上杉家は関ケ原の戦い石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に大幅減封されたのである。

この廟所で特に参拝客に人気があるのは、始祖謙信公と10代藩主の鷹山公だ。鷹山公は養子として藩主の座に迎え入れられ、困窮する藩財政を回復させた名君である。かのアメリカ大統領J.F.ケネディが、日本で最も尊敬する政治家として鷹山公を挙げたことでも知られている。

上杉家御廟では、運が良いとボランティアスタッフの方がこういった歴史に関して詳しく説明してくれる。米沢の歴史を知るためにもぜひ訪れてほしい場所だ。

uesugigobyo.com

 

D. 小野川温泉 (米沢市)f:id:kinmokuseinotabi:20200512185454j:plain
小野川温泉 夕日

米沢の中心地から南西に9kmの距離にある米沢の奥座敷。名前の「小野」は、小野小町が父親の行方を捜して東北を旅している最中に病で倒れ、この小野川温泉で身体を癒したという伝説が由来と言われている。泉質はラジウムと塩分を多く含む硫黄泉。鷹山公の時代にはこの泉質を活かし、藩財政立て直しの試みの一環として、温泉から塩を生産していたという過去を併せ持つ。

静かで趣のある温泉街にはゆっくりとした時間が流れており、心と身体を癒すことができる。生産毎年6月中旬~7月下旬には、天然のほたるを楽しむほたる祭りが開催される。

参照URL:https://www.chuokai-yamagata.or.jp/onogawa/index.html

E. 瓜割石庭公園 (高畠町)

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瓜割石庭公園

「モン○ターハンターに出てきそう」と友人が例えるほど、ゲームのような非現実な空間が広がる公園。かつては高畠石という石の採石場であり、長い年月をかけて石が人為的に切り出されたことから、このような奇岩が生まれた。現在はバーベキューやコンサート会場としても使用されており、岩壁をスクリーンとするようなユニークなライブも企画されている。

www.gampeki.com

 

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瓜割石庭公園 仏像
F. 高畠ワイナリー (高畠町)

米沢市に接する東置賜郡高畠町はブドウの栽培が盛んであり、特にブドウの品種の一つであるデラウエアに関しては、栽培面積・生産量ともに日本一である。そのブドウを用いて「高畠ワイン」というブランドのワインが製造されており、ワイナリーとしては東北No.1の出荷量を誇る。

ワインのほかにも地域の特産品を多数取り揃えており、旅行の最後にお土産を買う場所として適している。試飲をしながら買い物を楽しめるほか、ワインの製造ラインの見学もできる。

www.takahata-winery.jp

www.winery.or.jp

3. おすすめ観光ルート

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OpenStreetMap

置賜地方は観光地が米沢付近に集中しており、比較的移動がしやすい。ただし、A.峠駅とB.姥湯温泉は米沢中心部から車で1時間弱離れており、すれ違いができないような細く険しい山道が連続するため運転には注意が必要だ。効率的に回れば1泊2日で足りるだろう。

 

米沢駅
 ↓🚗(50分)
A. 峠駅

 ↓🚗(40分)
B. 姥湯温泉
 ↓🚗(1時間20分)
C. 上杉家御廟

 ↓🚗(15分)

D. 小野川温泉

 ↓🚗(40分)

E. 瓜割石庭公園

 ↓🚗(15分)

F. 高畠ワイナリー
 ↓🚗(20分)
米沢駅

 

≪次回、最上&村上地方編につづく≫

きてけろ山形 ~庄内編~

1.はじめに

 

山形県というと、どういうイメージを持たれるだろう。さくらんぼ、芋煮、米沢牛銀山温泉…。

私が最初に感じた山形の魅力は自然であった。観光名所である山寺から望む風景、蔵王の強酸性の温泉、湖畔に群生する水芭蕉など、どこへ行っても豊かな自然に囲まれていた。次に感じたのは、山形の多様で奥深い文化であった。山形県は江戸末期には8つもの藩に分かれており、各地域は現在でもそれぞれが独特の文化を有している。

今回は、山形県庄内地方(旧酒田県)、最上&村上地方(旧山形県)、置賜地方(旧置賜県)の3つに分けて、各地域のおすすめ観光地をご紹介する。今回は第一回として、庄内地方を取り上げる。

江戸初期 山形藩 米沢藩
江戸末期 山形藩 長瀞 上山藩 天童藩 新庄藩 庄内藩 松山藩 米沢藩
廃藩置県 山形県 上山県 天童県 新庄県 大泉県(旧庄内藩) 松嶺県(旧松山藩) 米沢県
第一次府県統合 山形県 酒田県 置賜
第二次府県統合 山形県

参照URL: 日本全国の大名配置図 1630年 - 江戸時代の大名領地Map

参照URL:山形県について — 山形県ホームページ

 

2.庄内地方

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紫:庄内地方 青:庄内地方 黄:村上地方 緑:置賜地方

https://www.openstreetmap.org/copyright

2-1. 地域の特徴

庄内地方(地図の紫部分)は山形県の海沿いに位置する。東端に出羽三山(湯殿山羽黒山・月山)が自然障壁として存在する影響で、山形県の内陸部とは異なる文化を形成してきた。また、域内に存在する出羽三山山岳信仰の聖地であり、古くから多くの参拝者や修行者を集めてきた。

経済の観点からは、その地理的特徴ゆえに舟運が盛んであり、主要な都市は河川の周辺に発展してきた。実際、地域を代表する都市として挙げられる鶴岡市酒田市は、それぞれ赤川と最上川のすぐそばに位置している。

2-2. 観光地

 

A. 湯殿山総本山清水寺大日坊 (鶴岡市)

f:id:kinmokuseinotabi:20200512190545j:plain807年創建の弘法大師(空海)を開祖とするお寺。かつては42もの伽藍を有する日本最大級のお寺であったが、明治政府の廃仏毀釈の流れに反対したところ原因不明の火災により伽藍が消失し、現在の場所に規模を縮小し再建されたという歴史がある。

また、真如海上人の即身仏が安置されていることでも有名だ。真如海上人は飢饉や疫病で苦しむ民衆を救うために、自ら地下の石室に約3年間籠り即身仏となった。この即身仏を見るために海外からも参拝客が訪れる。

なお、参拝の流れとしては、住職の方から直接お寺と即身仏にまつわる歴史を詳しく説明いただき、御祓いを受けた後、即身仏とご対面となる。

参照URL:徳川将軍家祈祷寺 湯殿山総本寺瀧水寺大日坊

B. 羽黒山五重塔 (鶴岡市)

先ほど紹介した湯殿山と同じく、山岳信仰の聖地として出羽三山に数えられる羽黒山。その象徴的な存在である五重塔は、平安時代平将門によって創建されたと伝えられている。入り口から五重塔までは10分ほどの道のりであるが、実はこれは序の口。山頂にある出羽三山神社までは、なんと2446段もの石段が続く。これは長い階段で有名な香川の金刀比羅神宮の階段数(1368段)の倍近くにもなる。

毎年夏には五重塔がライトアップ(日没~21時30分)が実施される。

www.travel.co.jp

gurutabi.gnavi.co.jp

C. 白山島 (鶴岡市)

f:id:kinmokuseinotabi:20200512190201j:plain「東北の江ノ島」という愛らしい別称をもつ風光明媚な島。海水浴場や釣り堀があり、夏場は特に多くの家族連れで賑わう。島内には一周できる遊歩道が整備されているほか、島の頂上には白山神社という神社がある。

この神社、超急勾配&263段の踊り場のない石段の先にあり、地上からの高さは約70m(1階を3mとすると、23階建てのビルに相当)である。高所恐怖症の人にとっては非常にスリリングな体験をすることができる。

tsuruokamarukajiri.info

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白山島 遊歩道からの景色
D. 山居倉庫 (酒田市)

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山居倉庫

最上川の河口に位置する酒田は、古くから最上川流域の年貢米や工芸品の集積地として働きを果たしてきた。1672年に江戸までの海上航路(西廻り航路)が確立されると、酒田は航路の起点として江戸や大阪などの消費地と結ばれ、「西の堺、東の酒田」呼ばれるまでに繁栄した。結果として、全国長者番付で大関(現在の横綱)に選ばれるほどの豪商、本間家を生み出した。

山居倉庫は、明治期に入った1893年に建設された米蔵である。陸運が主流となった結果大部分は倉庫としての役割を終えているが、酒田の繁栄を物語る貴重な建造物として保存されている。また、酒田観光の拠点として、観光物産館「酒田夢の倶楽」や庄内米歴史資料館が併設されている。NHK連続テレビ小説おしん」の舞台としても有名。

参照URL: 山居倉庫|観光スポット|酒田さんぽ - 山形県酒田市の観光・旅行情報

E. 丸池様 (飽海郡遊佐町)

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古くから地域住民の信仰の対象として「丸池様」と呼ばれている池。湧水のみを水源としており透明度が非常に高く、日光の当たり方によってはエメラルドグリーンに輝く。池の中には倒木が幾重にも重なって沈んでおり、まるでこの世とは思えない神秘的な雰囲気が漂っている。shounai.hateblo.jp

 

F. 玉簾の滝 (酒田市)

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ライトアップされた玉簾の滝

山形県随一の高さ63メートルをほこる、旅のクライマックスにふさわしい名瀑。滝壺の近くまで行くことができ、真下から見上げるその姿は圧巻の一言。駐車場から10分ほど歩く。GWとお盆の期間には例年ライトアップ(日没~21時)が実施される。

yamagatakanko.com

 

3. おすすめ観光ルート 

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OpenStreetMap

今回ご紹介した観光地を回るモデルルートは以下のとおりである。レンタカーを乗り捨てできる場合は、山形駅で借りて新庄駅で返却(もしくは、新庄駅で借りて山形駅で返却)とすることにより、車での移動時間を短縮することができる。

また、以下では新幹線で首都圏から山形駅に訪問することを想定しているが、飛行機で庄内空港を利用する場合は、より移動時間を短縮することができる。ただし、庄内エリアは南北に広く移動に時間を有するため、訪問箇所を少なくしても2泊以上は必要と思われる。

 

<行程>

山形駅

 ↓🚗(1時間15分)

A. 湯殿山総本寺瀧水寺大日坊

 ↓🚗(40分)

B. 羽黒山五重塔

 ↓🚗(50分)

C. 白山島

 ↓🚗(40分)

D. 山居倉庫

 ↓🚗(30分)

E. 丸池様

 ↓🚗(40分)

F. 玉簾の滝

 ↓🚗(2時間30分)

山形駅

 

≪次回、置賜編につづく≫

"水彩都市" 江東の魅力

1. はじめに

 

 「どこにあるか分からない」 

友人に住まいを聞かれ、江東区と答えたときのおおよその反応である。最初は地図や路線図を見せて説明を試みていたが、ピンとこないのか毎度曖昧な返事しか返ってこない。このような屈辱的な経験を重ねた結果、住所を聞かれた時には「千葉寄りの東京」とか「錦糸町の近く」とか、江東区という言葉を避けて答えるようになっていた(ちなみに、錦糸町墨田区)。

しかし、近ごろ自宅周辺の散歩をするなかで、江東区には河川や運河など水にかかわる魅力的な場所が多く存在することが分かった。今回は、江東区内を流れる河川・運河の中から3か所(旧中川・小名木川・堅川)を取り上げ、水との共存を目指す「水彩都市」江東の隠れた魅力を紹介したい。

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江東区マップ

OpenStreetMap


2. 取り残された川「旧中川」

2-1. 旧中川の歴史 

最初に、江東区の東端(江戸川区との境界)を流れる旧中川について紹介する。なぜ川の名前に「旧」という文字がつくのか、それは中川が2つに分断されており、一方は既に川としての役目を終えているためである。

分断の背景には、110年前に東京を襲った大洪水がある。当時、荒川は現在の隅田川のルートで東京湾に流れていたが、1910年に発生した大雨により荒川下流域の水があふれ、大規模な洪水が発生した。これを受けて、増水時に水を分散させ洪水を防ぐことを意図して荒川放水路(現在の荒川本流)の建設が決定された。1930年に完成したこの荒川放水路により、中川は荒川放水路に注ぐルートに変更なり、取り残された下流部分(約6.6km)を旧中川と呼ぶようになった。

荒川放水路は、1910年の大水害を教訓とし、増水時の対策として建設された。大水害から109年後の2019年、「100年に1度」と言われた大風19号の際、荒川及び隅田川は氾濫することなく持ちこたえた。私が今生きていることも、この荒川放水路のお陰かもしれない。中川の分断は、先人の成し遂げた大事業の痕跡といえる。

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夕暮れの荒川放水路

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旧中川の分断地点

OpenStreetMap

参照URL:https://www.jcca.or.jp/kaishi/275/275_doboku.pdf

 

2-2. 憩いの場所

荒川放水路の完成によりあえなく取り残されてしまった旧中川であるが、現在は釣り人が集まるスポットになっている。それもそのはず、都内を流れる川とは思えないほど水質がよい。2004年の東京都による調査結果によると、スズキ、ボラ、ハゼなどの多くの川魚が確認されている。

また、全長6.6kmという適度な距離感と川沿いを走る爽快感から、旧中川をジョギングコースとして取り入れている地域住民はとても多い。加えて、外部の川と直接接しておらず水の流れが非常に穏やかであることから、絶好のカヌースポットとなっている。

旧中川の周辺には大島小松川公園や亀戸中央公園など大規模な公園が整備されており、野球、テニス、サッカー、バーベキューなどを楽しむことができる。このように、旧中川は川としての役目を終えたものの、自然と調和した都市空間として幅広い年代の人々に愛される場所となっている。

 旧中川リバーカヤック&SUP体験ツアー | 東京アーバンカヤック

水彩都市の魅力を体験!旧中川・川の駅で「こうとうこどもカヌー大会2019」が開催されました(取材:9月8日)|江東区

 

 

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旧中川 散歩をするカモ

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旧中川と東京スカイツリー

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大島小松川公園

3. 運河を有効活用する試み

旧中川のように自然の河川を活かす試みのほかにも、江東区では運河を活かした特徴的な街づくりが行われている。その例として、小名木川と堅川を紹介する。

3-1. 小名木川

小名木川は、行徳塩田(現在の千葉県行徳)の塩を安全かつ迅速に江戸に運ぶために、徳川家康の命により建設された運河である。「かつての塩の道にふさわしい江戸情緒の感じられる水辺の道」を目指し2006年に整備が行われ、現在の姿となった。川沿いには石灯籠や歴史を紹介する立て看板が設置されているほか、塩なめ地蔵(宝塔寺に安置)など塩の歴史を物語るスポットが存在する。ジョギングするには少し狭い遊歩道だが、江戸の歴史情緒を感じられる場所である。

参照:

https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/temporary/content3/000007292.pdf

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小名木川 遊歩道

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3-2. 竪川河川敷公園

首都高速道路7号線の高架下に、ひっそりと佇む全長2.4Kmの細長い公園がある。一見するとよくある高架下の公園であるが、実はこちら、かつての運河である堅川を暗渠化(=覆いをしたり地下に水路を設けること)することで誕生した公園である。

この公園には、高架下という立地を活かした天候に関わらず楽しめる施設(フットサル場・パターゴルフ場など)はもちろん、運河を活かしたユニークな施設(カヌー/カヤック場・水上アスレチックなど)も存在する。首都高速の下で楽しむカヌー/カヤック・水上アスレチックは、旧中川など自然の中で楽しむのとは別の刺激を与えてくれること間違いない。

1000enpark.com

 

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竪川河川敷公園

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JR亀戸駅から徒歩10分 都営新宿線3駅(西大島/大島/東大島)から徒歩15分

OpenStreetMap

3-3. 鉄道要素

完全に蛇足であるが、堅川河川敷公園内には鉄道ファンが狂喜乱舞するスポットがある。それは、公園内を横切るJR越中島支線と都電砂町線跡だ。

越中島支線は小岩駅越中島貨物駅を結ぶ貨物専用の鉄道路線(開業:1929年)である。かつては豊洲や晴海までつながっていたが、現在は日曜日を除く1日3往復のみの運行となっている。公園の上を貨物列車が通過していく姿は、鉄道ファンにとっては鼻血モノである。1日3往復のうち2往復については臨時便であり時間が分からないため、確実に貨物列車を見るためには、定期便である以下時間にあわせて線路付近に待機しておくのがいいだろう。

 

9295列車 新小岩信号場12:10→越中島貨物駅12:22

9294列車 越中島貨物駅13:42→新小岩信号場13:55

 

 

また、公園内にはかつて水森神(亀戸付近)と洲崎(東陽町付近)を走っていた都電砂町線(開業:1920年、廃止:1972年)の遺構もモニュメントとして残されている。

参照URL:history | Tram Walker

参照URL:

都内を走る「忘れ去られた貨物路線」に再び栄光は来るか? (ゲットナビ)f:id:kinmokuseinotabi:20200426145857j:plain

JR越中島支線 竪川橋梁

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都電砂町線 線路跡

4.旧中川・小名木川・堅川が果たす役割

4-1. 見直しの動き 

江東区内を流れる運河は、自動車の普及によりその多くが水上交通路としての役割を終え、埋め立てられて遊歩道や道路になってきた。しかし昨今、防災上の観点から、水上交通路としての運河や河川の役割が見直されている。

東日本大震災の際、道路上の障害物や陥没などの影響により、津波の被災地域である岩手県宮城県沿岸部への物資の輸送や緊急車両の通行が妨げられた。こういった教訓を活かし、江東区においても陸上輸送が困難になった場合に備えた海上輸送網の整備が進められている。

4-2. 荒川ロックゲート 

海上輸送網の整備にあたって壁となったのは、荒川と旧中川・小名木川・堅川との水位差であった。大正時代以降、江東区内の地盤が徐々に沈下し、一時荒川と旧中川との水位差は約3メートルにまで拡大した。この状態では、水位差から航行できない。沈下の理由としては、江東区の地層一帯が千葉県を中心とする水溶性の天然ガス田である「南関東ガス田」に含まれ、第二次世界大戦中を中心に天然ガスを溶解する地下水の大規模な汲み上げが行われたことが大きく影響している。(なお、1972年に天然ガスの採取が停止し、以降地盤沈下はほぼ停止)

 この水位差を解消する画期的な施設が、旧中川と荒川放水路との接続点に存在する荒川ロックゲートである。これは、パナマ運河のように2つのゲートの間に船を移動させゲート内の水量を増減させることで、水位差なく移動を可能にする施設である。これにより、隅田川荒川放水路に挟まれた地域(通称、江東デルタ)が旧中川・小名木川・堅川などの河川や運河を通じて、荒川、延いては東京湾と結ばれた。江東デルタは約70万人が居住する人口密集地であり、災害時の物資運搬や人命救助に役立つことが期待されている。f:id:kinmokuseinotabi:20200429153516j:plain

荒川ロックゲート

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江東デルタ(赤色部分)と荒川ロックゲート(緑部分)

OpenStreetMap

5.おわりに

江東区内を流れる3つの川と運河(旧中川・小名木川・堅川)を通じて江東区の魅力を紹介してきた。コロナウイルスによる外出自粛により遠方への旅行ができない状況が続いているが、ふと地元に目を向けることで、生活や減災の観点から自然との共生を試みる江東区の歴史と新たな魅力を発見をすることができた。

来る東京オリンピックパラリンピックでは、オリンピック33競技のうち12競技、パラリンピック22競技のうち8競技が江東区で実施される。実施種目の中にはカヌー、ボートという江東区とゆかりのある種目も含まれており、江東区出身の瀬立モニカ選手がパラカヌーに出場予定である。ぜひともご注目いただきたい。f:id:kinmokuseinotabi:20200429153440j:plain

荒川ロックゲートと夕日